唐津城は、寺沢志摩守広高により、慶長七年(1602)から慶長十三年(1608)に築城されたと伝えられています。その形は、唐津湾を臨む満島山を本丸とし、南西に広がる砂丘上に二の丸、三の丸を配置したもので、三の丸の周囲には城下町が造られました。満島山を中心に、虹の松原と西の浜一帯の松原が弧を描いて東西に広がっている姿から、舞鶴城とも呼ばれています。
寺沢広高は、唐津城築城に並行して、松浦川の改修・虹の松原の植林・新田開発を行い、現代に通じる近世唐津の基礎を造りました。また、天草の富岡城築城をはじめ、近年では唐津市厳木町にある獅子城も大改修を行っていたことが明らかになり、地域の拠点づくりにも尽力しました。このころ寺沢氏は12万3千石を領する外様大名へと成長していきました。
しかし、寛永十四年(1637)に起きた島原の乱の責任をとり、天草郡4万石が没収されました。さらに、嗣子がいなかった寺沢堅高が正保四年(1647)に自害すると、寺沢家は断絶、改易となり、一時唐津藩は天領となりました。
その後、譜代大名の大久保、松平、土井、水野、小笠原と五つもの家が転封を繰り返しています。唐津藩は、長崎警護を担当した佐賀藩と福岡藩の目付役として重要な任務があり、これらの外様大名を監視する譜代大名がこれにあたったようです。
その後明治維新を迎え、明治四年(1871)の廃藩置県により、唐津藩はその歴史に幕を閉じるのです。明治十年(1877)には舞鶴公園として整備、昭和四十一年(1966)に模擬天守が建設されて現在に至っています。
|